朝日新聞と本多勝一(本名 崔泰英)が70年代になってから、突如として「南京大虐殺」キャンペーンをやり始めたのは、戦後20年以上経って事実を知る人間が減ったから。
悪魔の本多勝一
朝日新聞と本多勝一(本名 崔泰英)が70年代になってから、突如として「南京大虐殺」キャンペーンをやり始めたのは、戦後20年以上経って事実を知る人間が減ったから。
当時南京攻略戦には日本から数百人もの従軍記者が押し掛け軍に帯同していたのに、誰1人「大虐殺」なるものを写真に納めたり、見聞きした者はいない。
朝日と本多(崔)は、終戦直後の捏造拡散では、支那に出兵した元軍人や記者達から猛抗議を受ける事を分かっていたのだろう。それと戦後の言論空間が、日をおうごとに“自虐的”な空気に染まっていったタイミングとそれから当時支那が、文革の真っ最中だった事もあったと思う。
毛沢東の紅衛兵が支那大陸で猛威をふるっていた時代、日本から来た本多(崔)が「旧日本軍の残虐行為を教えて下さい」などとやれば、支那人は喜んで反日捏造話を本多(崔)に吹き込んだことだろう。
本多(崔)は、それでも「中国の旅」を朝日に掲載後、日本人から「事実と違う」と抗議を受けた。本多(崔)は、その人達に向かって「文句があるなら、中国人に言え!私は彼らから聞いた話をそのまま載せただけだ」と嘘ぶいた。
反日捏造話のほとんど日本人のふりをした在日朝鮮人によって拡散されて来た。これこそが歴史の事実である。
生年不明という怪しい人物 本多勝一
1970年代初頭、朝日新聞社内に広岡知男社長や森恭三論説主幹の指導によって安保調査会が結成され、反米親中を旨とする編集方針が定まると共に思想的転回を遂げたとされる。
また、『WiLL』2006年8月号p.71によると、この時期の本多は任錫均という朝鮮系の左翼理論家から多大な影響を受けたという(この件に関して、本多自身はいくつかの著書で「被害」と言っている)。
本多はこの時期、日本共産党系の通信制市民大学である勤労者通信大学に変名で在籍し、社会科学を学んだことも明らかになっている。熊谷京二郎という変名を名乗ることもあった。
コリア情報ステーション
より転載